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どっちがいいのか [所長の部屋]

よく眠れて、右も左もおいしいものばかりの季節になってきました。

今朝の新聞にこんな記事が載っていました。

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色覚検査が廃止されたことで、①検査を受ける機会がない→②自分が色覚異常であるという自覚がない→③なんかおかしいかな~と思いながら育つ→④なんかのきっかけで検査を受けて異常を知る→⑤ガビ~ン! というようなことが起こっている、という内容でした。だいぶ端折りましたが。

 このロジック、障がい福祉関係の方ならすぐにピンとくると思います。そう、自閉症スペクトラムのはじっこやLD、ADHDなど発達障害と総称される状態像の方が経験されてきたことと極めて似通っています。

昨夜、市の作業所連絡会の役員会があり(今年度は役員を仰せつかっております)、そのなかで、今後養護学校・特別支援学校の卒業生が大幅に増えてゆくことが見込まれており、その卒業生の皆さんが地域で活動するための場所(つまり作業所とか活動ホームとかその他の障がい福祉サービス事業所)の不足が懸念されているという話題がありました。 そして、この“急増する卒業生”のうち一定の割合を発達障害圏の方が占めていると。

発達障害圏の方が増えているというのは業界の至る所で語られています。特別支援学校も小学校の個別支援級もいっぱいだ、とか、普通級の児童の6%程度は発達障害圏の疑いがある、とか。そして、その急増の要因として発達検査の精度が上がったこと(発達障害という概念そのものが浸透したこと)が挙げられています。“昔だったら『ちょっと変わった子』ってことで普通級にいたよね”なんて言葉をよく耳にします。

色覚検査についてはこれとは全く逆のことが起こっているようです。検査をやめた故に自分の色覚異常を自覚することないまま成長し、何かの折にその事実を突きつけられて戸惑う、と。

さて、これはいったいどちらがいいのでしょうか。

この記事のなかで、色覚検査をやめたのは・検査が社会的差別につながりかねないこと・色覚に異常があっても社会生活上の支障がない人が多いこと が理由であると書かれてます。

検査を緻密にして専門的な支援を組み立てるのか、選別を避けておおらかな包摂にゆだねるのか。どっちがいいのかについては意見百出です。でも、乱暴にまとめてしまえば要するに大事なのは差別されることなく支障なく生きることで、そのためには支援も包摂もともに大切にすべきと思います。この件に限らず、この『どっちがいいのか』の迷路に迷い込むことがありますが、そういうときは目指すべきもの/ことにきちんと注目することにしています。そうするとだいたいの場合は択一ではなく両にらみで行くべきなのだと気づきます。(包摂ってい言葉が正しいのかどうか自信がありませんが、要するにあたりまえにともにある状態になることです)

 

実は(などともったいぶるほどのことでもありませんが)わたくし色覚異常です。信号の赤と黄色は怪しいし、小学生の時には隣の席の憎からず思っていた女の子と漢字テストの答案を交換してマルつけしたときに時に赤と思って茶色の色鉛筆を使ってしまい大泣きされるというイタいできごともありました。こういうことを経験するにあたってはやはり準備ができている(=自分が色覚異常であると知っている)ことは大切であったと思います。しかし一方で、それを自分で知っているゆえに自分の生業を考えるにあたって医者は無理だよな~とかデザイン関係はナシだよな~とかいうふうに自分を縛ってしまったことは今となっては間違っていたと思っています(頭の出来とかセンスからしてそもそも…という話は抜きにして)。

こんな話もあります。知り合いの女性から聞いた話です。長男が小学校に上がって初めての授業参観の時、彼の母親(つまりわたくしの知り合いの女性)が目にしたのは授業中ついに一度も目をあげることなくひたすら鉛筆で上履きの裏の溝についたごみをほじくり続ける息子の姿であったそうです。 その後彼は普通級→中学→高校と進み、結局はろくろく受験勉強もせずに東大受かったのですが、今であれば、彼はもしかしたら違った道を歩まざるを得ないのかもしれません。すくなくとも育児や発達についての情報があふれかえっているこんにち、同じ場面を目にした母親が“あら、あの上履きそんなに汚れてるのかしら。週末ちゃんと洗わなきゃ”などと鷹揚に受け止められるかどうかは疑問です。

徐々にまとまらなくなりつつありますが、要するに、何かを考えるときに“AかBか”と考えると迷路に迷い込みがちで、そんなときは“AもBも”と考えてみることが大切だなあ、と。割り切って進めれば話は早いのですが、たいていのことは極論では片付きません。 冒頭の記事も、検査はするべきかしないべきかという問いではなく『色覚異常があっても差別なく不便なく(ショックなく)暮らせるには』と問うべきなのでしょう。

しかし、色覚検査が10年も前に廃止されていたとは知りませんでした。学校の身体測定の項目から座高が外れたと聞いて、短足に悩むサッカー部時代の同級生が“いまさらもう遅いよ”とつぶやいていましたが、わたくしはなんとなく、検査を受けられたことは良かったと思っています。もちろん色覚異常と発達障害ではこうむる不利益や不便さは比べるべくもなく、同列に論じることはできませんが、発達障害であるということよりも、そのことを(本人が、はもちろんですが)社会がどのように受け止めるのか。そこを問うべきであると思います。個人に働きかけるだけが支援ではなく、むしろ社会に向かって働きかけるべきことの方が支援者としては重い任務であると、最近そう感じています。 

なんかカッコ書きが多い文章になりました。実はこの記事と同じくらい気になったのが一面隅のこちら。

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全国的に晴れ模様。これぐらいおひさまが並んでいると気持ちいいです。今夜は仲秋の名月とか。 

なにに変身しましょうか。 

 


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