障害者虐待防止法について [所長の部屋]
金曜日、暑いけどちょっと風がさわやかです。
昨日は戸塚区自立支援協議会に出席してきました。今年度の自立支援協議会は一年を通じて虐待防止についての学びを深めることをテーマとしています。昨日は市の担当係長から虐待防止法の概要と横浜市での取り組み状況についての説明がありました。
なるほどな~と思うことがいろいろありました。たとえば、虐待防止センターが受けた通報で緊急性の高い事案についてはすぐさま健康福祉局につなぐということになっていますが、センターは24時間/365日対応のところ局は基本的に月~金。緊急性が高い事案が土日祝日夜間などにあったらどうするんだろう、と思っていましたが、なんと、専用の携帯電話があって、局の担当者はいつでも対応するんだそうです。 市がそれなりに本気で取り組んでいることをうかがわせて、いい情報でした。
しかし、一方で説明を通じて(というかこの法律自体をめぐって)どうしても腑に落ちないことがあります。
『防止法』と言いつつ、この法律が(及びそれに基づいて自治体が)定めているのは虐待についての定義と、それが起こったときにどどのように対応するかについてです(というふうに理解してます)。それはそれで確かに重要だし意義のあることですが、虐待というのはあくまで現象として立ち起こってくることで、それがどのような背景で起こるのかという構造的な要件に目を向けなければ防止はできません。そこに注目せずに虐待という現象があってからそれにどうのように介入するかを定めるというのはなんとも泥縄な印象をぬぐえません。
養護者の孤立、障害者支援施設における人員不足、雇用者の知識・経験不足。そうしたことを解決してゆかなければ、虐待はなくなりません。そして、この法律にはそのような予防的な視点はほとんど盛り込まれていません。昨日の説明のなかでも予防的な視点で語られていたのは市民の啓発と法律の周知だけでした。
虐待防止法の枠組みでは虐待を防止することはできない。矛盾のようですが、ある意味やむをえません。そもそも法律が一本立ったから解決するような問題などありませんし、孤立や人員不足は防止法で対応すべきレベルの話ではありませんから。。だからこそ、この法律の枠組みで虐待防止を考えるのではなく、この法律をきっかけとしてもう少し包括的な取り組みを期待したい。そんなことを質疑応答の時間に係長に投げかけてみました。
虐待をしないことはひとつの視点として大切ですが、別に支援の目標ではありません。支援の質を高めてゆくことを通じて虐待から離れてゆくのだと思います。 理想論ですが。
似顔絵 [所長の部屋]
金曜日、今週は暑い日が続いています。
先日のこと、活動ホームで七夕のイベントをしたときに、とあるメンバーが彦星の絵を描きました。
その絵がこちら。
これは彦星でしょうか。
いや、これはどう見てもわたくし。特徴をよくとらえております。ていうか彦星はタバコ吸わないでしょ。
驚くべきはこの絵、彼が実物(つまりわたくし)も写真なども全く見ないで描いたということ。わたくしが入職する年前、地域作業所とつか時代からの利用者さんなので、もう19年のお付き合い。実物を見なくても描けるぐらいにわたくしを知ってくれていることに感激しました。
わたくしも同じくらいに彼のことを知っているのでしょうか。そうありたいと思います。
ちなみにこの写真、活動ホームのブログから頂戴しました。こちらも併せてご愛読ください。
障害支援区分への見直しに向けたパブリックコメント [所長の部屋]
木曜日、もうすぐ七夕ということで小ぢんまりと飾りつけをしました。
最近、厚労省のホームページにこんな情報がアップされました。
そもそも旧自立支援法は介護保険との統合を強く意識した構造になっていて、その法律の下で“当事者がどのようなサービスをどの程度必要としているか”を見積もる調査項目も介護保険とほぼ重複していました。そのため、調査結果をもとにコンピューターソフトが自動的に出す一次判定において知的・精神の領域の要支援度がぜんぜん反映されず、追跡調査によれば知的障害者・精神障害者の判定においては医師の意見書その他を踏まえた二次判定で段階が上がったケースが40パーセントを超えています。廃止して全面的に改定されるはずだった自立支援法は政治の波に洗われていつのまにか看板を架け替えただけにひとしい総合支援法になりましたが、さすがに4割が要修正っていうのはそもそも調査自体にムリがある思ったようで、見直し案が示されました。見直しの概要、新しい判定の式、改訂した質問項目(いずれも案)という3種類のファイルがアップされています。
これまで何度も区分認定調査に立ち会いましたが、そのたびに“『できる』とはどういうことなのか” についての解釈をめぐって強い違和感を覚えました。要するに“いま現在は適切な環境や支えがあるからできていることを『できる』とみなされ、それに基づいて判定がなされるのはおかしいのではないか”というようなことです。
今回の見直しでは、その点についてある程度解釈の改善がなされていました。その点は評価できると思います。ただ一方で、“従来の調査で医師の意見書によって反映されていた部分を一次判定で反映できるようにした”という説明があることから、二次判定の手続きがどのようになるのかは気になるところです。支援というのはひとりひとり個別である生活にかかわるものです。コンピューターによる一次判定はある意味ブラックボックスなので、二次判定というアナログな手続きがないとそういう個別の支援の在り方は測れない(あっても正確に測れるわけはありませんが、ないよりよい)のです。
というか、そもそも必要だと誰かが見積もった量だけの支援しか受けられないということ自体おかしな話だと思います。その性質から言って障害福祉サービスというのは当事者が使いたい量と必要量は極めてイコールに近いはずで(一人でトイレに行ける人はわざわざ排泄介助を頼みません)、本来必要なサービス量以上に支給決定を受けることにメリットなどありません(この部分中;文末へ)。すくなくとも調査手続きについての研修は受けたけれど当事者のことをよく知らない『調査員』がマニュアルと首っ引きで〇だ×だと書き込んで算出した量ではなく当事者の“こういう支援を受けてこういう風に生きていきたい”という思いにこそ正統性があるはずです。まあ、こういうそもそも論はすくなくともパブリックコメントにおいてはほとんど意味をなさないんですが、やはり違和感があります。
ともあれ、掲示されている資料は見直しの概要、新しい判定の式、新しい設問項目(いずれも案)の3種類。わかりやすくしようという工夫は見て取れますが、やはりわかりにくい。もうちょっと読み込んでみたいと思います。たぶん突っ込みどころは満載。
ちなみに件のページ、一番下に“ルビつきページはこちら” っていうリンクがあって、そこをポチっとすると同じページにびっしりルビを振ってあります。官僚用語だれけの文章に振り仮名を振ることをもってわかりやすくするための配慮だと真剣に考えているのだとしたら、そういう人たちが制度を設計するのはやはり心配です。そこから上記三種類の資料へのリンクにもご丁寧に『しょうがいしえんくぶん みなおし あん がいよう』『しんはんていしき あん』などとルビが降ってありますが、肝腎のリンク先はルビなしページからと一緒のPDFファイル。わかりやすくするつもりでルビ付きのページを作って、誘導する先がルビなしの資料という。
そういうところが心配なんだよね。
(注);ただし、ここに“サービスを使ってもらうことで報酬を受ける事業者(つまり我々です)”が存在することは留意が必要です。本来必要なサービス量を超えて支給決定を受けることは当事者にはメリットがありませんが、事業者の利益誘導の材料にはなります医療における過剰投薬がしばしば指摘されるのと同じことです。
市作連ブロック会議 [所長の部屋]
木曜日、梅雨の合間の晴れとなりました。
昨日の18時から活動ホームしもごうで横浜市の作業所連絡会の戸塚ブロックの意見交換会が開催されました。テーマは『あんしん施策で安心は実現したのか』
あんしん施策はこのブログでも何度か取り上げましたが、いいね!と思う部分、むむむ…と思う部分、どちらもありつつ、とにかく現場からの声でより良いものにしてゆきたいと思います。
会議のなかで“障がい児者支援の仕組みは、次の社会をどういうものにしたいかを考えるときのモデルであるべき”という発言がありました。同感です。
で、そんなことも含めて最近面白かった本。
小熊英二『社会を変えるには』講談社現代新書。社会福祉や障がい児者支援について直接言及しているわけではありませんが、 直球そのもののタイトル通りの内容は、これからの自分たちがすべきことを考えるにあたってのヒントがちらほらとありました。
しかし新書が1300円とは、世の中変わりましたね。
訃報 [所長の部屋]
唐突ですが
一、われらは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する。―われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且つ行動する。
一、われらは、強烈な自己主張を行なう。―われらが、脳性マヒ者であることを自覚した時、そこに起こるのは自らを守ろうする意志である。われらは、強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。
一、われらは、愛と正義を否定する。―われらは、愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
一、われらは、健全者文明を否定する。―われらは、健全者のつくり出してきた現代文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中から、われら独自の文化をつくり出すことが現代文明の告発に通じることを信じ、且つ行動する。
一、われらは、問題解決の路を選ばない。―われらは、安易に問題の解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動であると信じ、且つ行動する。
こんなことを書いた方がつい先日亡くなりました。
青い芝の会と言えばご存知の方も多いかと思います。当事者団体の先駆であり、世の中を撃ち抜いた運動体であったと思います。評価は様々ですが、社会(=世間一般)に与えた強烈なインパクトは消えませんし、支援者として障がい福祉に携わるわれわれにとっても同じように強烈なメッセージであり続けています。
1998年にに横浜市立大学の学園祭で青い芝の会のドキュメンタリーフィルム『さよならCP』の上映会があって、それを観に行きました。上映の後に出演者である会のメンバーの皆さんとの質疑応答の時間があり、“長い間こうして日本中をめぐりながらメッセージを送り続けているその原動力はなんなのか”と聞いてみました。答えは“それは憤りです”と。続けて、“憤りっていうのは怒りとは違うんです。憤りっていうのは『義』の問題なんです”と。
その言葉が、なんとなくずっと心に残っています
ご冥福をお祈りします
DJポリス [所長の部屋]
金曜日、梅雨入り宣言とともに梅雨の中休みとか。
このところ世間でちょっとほっこりしたニュースになっている、DJポリス。サッカー日本代表がW杯出場を決めて熱狂の群集でごった返す渋谷駅前で、交通警備のおまわりさんの誘導がすごくよかったと。
どんな感じだったのかは『DJポリス』とニュース検索すればいっぱい出てくると思いますが、今日の新聞のコラムを読んでいて、なるほどと思ったことがありました。いわく、“理より情への訴えが共鳴を呼び起こした”と。
なんとなく、障がい者(を含むマイノリティ)の運動にも通ずるキーワードのような気がします。『情』という言葉はちょっと違う感じがしますが、要するに世の中や人を動かすのは『納得』ではなく『共感』なのだということだと思います。群衆から笑いが起こったというのもどこか感じるものがあります。ひとはアタマではなく心で動くのだ、と。
納得より共感。ちょっとおおきなヒントをもらいました。
進路 [所長の部屋]
金曜日、今日は調理をしました。すごくおいしいスパゲッティが出来ましたが、写真を取り忘れました。
昨日の夕方は戸塚区自立支援協議会の通所状況についての情報交換会に参加してきました。今回は戸塚区および周辺エリアの養護学校・特別支援学校の進路担当の教員のみなさんに参加していただいて、今後の卒業生の状況などについて教えていただきました。
なるほどな~と思うことがたくさんあって、とても有意義な会議でした。たくさん勉強になりました。
でも、いっこだけ会議の間ずっと気になったことがありました。
“送迎があるかどうかが非常に重要”“ある程度サービスがそろっているのが普通と感じているのでは”“自分たちでなにかをというよりは誰かにやってもらおうという傾向” 。近年進路指導をしていて感じることだそうです。ふむふむと思います。よそでもよくその手の話を聞きます。
だけど、それってみんな親御さんの傾向の話。教員の皆さんから“今後の卒業生の個性や特質・ニーズに照らしてこういう支援が求められている”っていうお話がなかなか出てこないんですね。われわれとしては(すくなくともわたくしは)それを聞きたいんですが。
もちろん、ご家族っていうのは当事者を支えるもっとも基礎的なリソースです。なんといっても“児”とか“者”とか“日中”とか“居住”とか“移動”とか“後見”とか、そういうあらゆる分け目を超えてシームレスに支えているわけですから、そこに注目するのはある意味当然といえます。
でも、やはり一方でそこに注目してさえいれば当事者のニーズがつねに満たされるかっていったら、そうではないと思うんです。 やっぱり当事者に注目してこそ支援でしょ、と。
そんな投げかけをしてみたところ出てきた見解が“重度の医療ケア”と“軽度の発達障害圏”。
う~ん、それはそれでうちとしてはものすごく難しい・・・
いずれにせよ、これからますますたくさんのハンディキャップを持った若者が地域での拠点を必要としているということはよくわかりました。 なにができるか、皆で考えていきたいと思います。
横浜市作業所連絡会 [所長の部屋]
火曜日、今週は蒸し暑いそうです。
昨日の午後、新横浜のラポール横浜で市作連の定例会があり、出席してきました。ラポールっていえば、かつてグランドデザイン→支援費支給制度→自立支援法→連結連合と活動ホームを巡る状況が眼ぐるましく流転していたころ、通常業務を終えた所長たちが夜な夜な集まって果てしない議論を繰り広げた場所です。ラポールは地下駐車場が21時にしまってしまうので、それまでに議論を終えようと申合せつつ、結局は20時50分ごろに“じゃあ、休憩も兼ねて車を移動しましょうか”ってことになり、終わるのは22時過ぎ。熱かった・・・
市社協障害者支援センター(旧在援協)が桜木町の健康福祉総合センターに移転(出戻り!?)してからはあんまりラポールに行くこともなくなりましたが、こうしてたまに行くと、あの熱が思い出されます。
などと書くとまるで熱かったのが過去のことみたいですが、そんなことはちっともなくて、今も、これからもずっと熱いまんまなんだろうと思います。淡々といければそれがいいのだろうけど、眼ぐるましく流転しつづける状況が熱くさせてくれてしまうんですよね。
昨日は定例の議題の後に瀬谷区の法人型活動ホームの方が『指定特定相談の現状と展望』というテーマでお話をしてくださり、これがとても勉強になりました。
『委託相談』『特定相談(計画相談)』『障害児相談』『一次相談』『二次相談』。ん?いったいどうなってるんだ?おまけに“原則的に特定相談(計画相談)を経ないと日中系のサービスは使えなくなる” ってホント?
支援者として、それも管理者としては当然この手のことはわかっていなければならないし、これからこうなっていくだろうからそれに対してこういう風にしようという見通しを持っていなければならないと思うのですが、正直なところよくわかっておらず不安でした。しかしてそんな不安も今回のお話で見事に解消。なんといっても冒頭に“先に結論を言うと、計画相談については市の担当者も含め誰も全体の見通しを持てていない”とのお言葉。なんだ、みんなわかってないのか。
もちろん、みんなわかってないんだから自分もわかってなくていいやっていうことでは全くないけれど、状況としてわかりようがないのだということが話を聞いて腑に落ちたし、その中でじゃあこうしていこうかなという部分でも指針を持てる内容でした。更に言えば、“相談ってサービスや制度を人に当て込むみたいな単純なことじゃないよね” というような『そもそも論』を聞くことができたのもよかったです。心理領域におけるロジャースのクライアント中心アプローチをもちだすまでもなく、まず人がいてその周りに支援があるのであって、制度やサービスに合わせる形で人が存在するわけではないのです。当たり前ですが。
とても貴重な学びの場でした。
ちなみに、今年度は連絡会の役員を仰せつかり、ともに今年度から役員という鶴見区の作業所の所長さんと並んで会議の冒頭にみなさまの前でご挨拶をしました。 イケメンの彼、Rolling StonesのかっちょいいTシャツを着ていました。ロックな若者が役員って、なんとなくいいな~。
ナイス(と非ナイス) [所長の部屋]
木曜日、平穏な一日でした。
暑くなってきて、T シャツ1枚のメンバーが増えています。みんなのファッションを見ていると、秋~春シーズンのファッション(トレーナーとかセーターとかフリースとかネルシャツとか)にくらべTシャツはバリエーションが豊かでおもしろいです。
今日のナイスな一枚。
察するに保育関連のグッズかと。
もちろんわれわれは“こ”ではありませんが、キボウの星ではあります。
しかし、高齢・障害に続き保育分野にも市場原理を導入する動きが活発です。こちらはちっともナイスじゃないす。障害福祉を介護保険に統合する目論見もあきらめてないみたいだし。 これまたぜんぜんナイスじゃないす。